あの地震から今日で25年だそうです。
早かったのか長かったのか、よう分からん感覚です。
びっくりするのはあれが平成になってからのことだった、ってことです。
てっきり昭和のことのように思ってた。
平成ってそれだけ長かったんですね。
何度も話してることですが、私はあの日は家にいませんでした。
伯母さんの病院に付き添ってたんです。
数時間ですが家族と連絡が取れない時間が続き、余命幾ばくもない伯母さんと2人だけ生き残ったもかも知れないと考えた時はそりゃもう心の中がパニックなんてもんじゃなかったなあ。
でもそんなこと言えないし言わなかった。
そうしたら伯母さんが何度も「ごめんなあ、おばちゃんがおらんかったらあんた家に帰れるのに、ごめんなあ」って謝るの。
すごく辛かった。
同時に、やっぱりそう思ってる部分あるんですよね。
それで「風と共に去りぬ」でアトランタが攻撃されてる時にお産で動けないメラニーがスカーレットに何度も謝って「家に帰りたいでしょう」って言うのにスカーレットがイライラした気持ち、分かりました。
私はスカーレットみたいにメラニーが嫌い、憎いみたいな気持ちはなかったけど、それでもやっぱり、家に帰りたいという気持ちはあったからなあ。
ただ、やっと家と連絡取れた時の母の第一声でその気持ちが吹っ飛んですっとしました。
「あんた、おばちゃんに助けてもろた!」
家は地震であっちこっちやられてました。
翌日帰ったら店の入り口が文字通り「敷居が高く」なってて、地盤沈下があったのが分かったし、外壁は真ん中で割れて観音開きみたいになってるのを紐で留めてあり、内壁は切れ目が入って土壁がボロボロに落ちまくってた。
店の中は揺れるたびに冷蔵庫のドアが開き、中に入ってた物がそのたびに落下して、「バタン、ガシャン、プシュー」と炭酸が吹き出す音がしてたって母が言ってました。
私が帰った時にはもうきれいに掃除されてたけど、それでも吹き出してプールみたいになった液体を掃除した後がネチャネチャして、「なんとかホイホイ」みたいになり、しばらくそういう状態でした。
ただ、
「食器なんか割れてもええぐらいいっぱいあるのに、水屋(食器棚ね)の中のはほとんど何も割れてなかった」
って母が言ってたのは笑ったな(笑)
両親が寝てた一階の和室、貧乏性でタンスの上まで洋服箱を突っ込んでたのが幸いしたのか倒れず下敷きにもならず、両親はケガ一つなかった。
そして妹が、
「私2階で一人やのに、地震が収まっても誰も心配して上がって来てくれなかった」
と怒ってたのもちょっと笑った(笑)
だって親だって動けんもん、あの状態では。
私は病院のソファベッドに寝てたけど、やっぱりすぐには動けなかったよ。
あの物のない部屋にいてすら。
そして、一番被害が大きかったのは私の部屋でした。
何しろ地震がどうのなんて考えたことなかったから、どんどん上まで物を積んでたんですよ。
本棚の上にはカラーボックスを横にしてアルバムを詰め、タンスの上には結構大きいステレオのスピーカーを乗っけて、その間にもケース置いて本(当時はじゃりン子チエとめぞん一刻が詰まってた)がぎっしり入ってて、学習机の上の棚にはでっかいダブルラジカセが乗ってて、他にも隙間という隙間にはなんか詰まったり乗ったりしてました。
それが、部屋の真ん中、私がいつも寝る時にお布団敷いてた場所に全部落ちてきてたらしい。
足元にタンス、頭上に学習机、斜め上に本棚が設置してあったので、頭のあっただろう場所にアルバム詰まったカラーボックス、でっかいラジカセ、足元からスピーカー、他にもなんだかんだ本やらCDやらカセットやらその他諸々が全部寝てるだろう位置に落ちてたらしい。
なので母が、
「もしも家で寝てたら死んでたかも知れない、おばちゃんのおかげ」
って言ったのでした。
帰った時にはもう隅に寄せられてたので現場は見てないけど、実際に見た母はゾッとしただろうなあ。
それをおばちゃんに伝えたら、ちょっとほっとしてくれたように感じました。
ただ、私は寝てる時に結構活動的なので、運良く全部の位置からずれてた可能性もあるから、その時はその時で後になって笑い話になってたかも知れません。
それでも、いなかったという幸運で今もこうしてここで駄文を書き散らせるんですよね。
人間というのは薄情なもので、家族が親族がみんな無事、次々に友人知人も無事となっていくと、私の中の比重はその年の4月に亡くなった伯母の存在が大きくなり、大部分を占め、直接的な震災のことは小さくなってしまってます。
今でも残る家の壁の壊れたの、2階の廊下が傾いて突き当りの壁がひし形になってること、今はリフォームしたけど私の部屋の真ん中から「へ」の字に床が傾いて変な位置に寝ると頭に血が上がるぐらいになったこと、そんなことすら普通になってしまうんですよね。
震災の後1年ぐらい、大雨になると見えない場所から水が吹き込んで、そのたびに修理してました。
妹の部屋、店の上の窓の下がびしょぬれになったり、店の商品を乗せてる棚の下から「ぶしゅー!ぶしゅー!」と隙間も見えないのに水が吹き出したりしたなあ。
思い出したようにガス管が折れたり、とにかく色々ありました。
それでも、震災で人命に関わる直接的な喪失がなかったこと、家に続けて住めること、それだけがあれば小さいことにしてしまえてました。
伯母さんがいなくなったことの方がずっとずっとずっと大きかった。
人間って身勝手です。
25年も経つと実際に知らない人も増えてます。
うちの甥っ子姪っ子からすると、私が親や親族から戦争の話を聞くのと同じような感じなんだろうなあ。
そんな人からすると、いくら聞いてもやっぱり分からないですよ、そんなこと、分かれとも言えません。
そして分かるようなことになってほしくない、とも思います。
毎年この日が来ると思うのはそんなことです。
運がよかった。
それを一番に感じます。
ちょっとずれてたら、今頃こんなのんきなこと言ってられなかったから。
それを忘れず、これからも来る可能性がある災害に備えて次からも泣かないようにしたい。
そして泣いた人のこと、泣けなくなった人のことを忘れないようにしたいと思います。